生み、産む、私。

岩手の滞在がこれほど濃厚で長く感じたのは初めてな気がする。体感としてね(笑)

温泉の効能のせいかな?
音浴と温泉と優しいごはんのせいかな?
人見知りの温泉旅、花巻までの一人旅。
仕事だけど旅をしている感覚に陥ることがよくある。
地元にいても自分旅をしている感覚というか…
いま目の前で起きていることは、今に息づいてないことで、それは過去にもつながっているし、今だし、未来でもあると思うのは、私のかってな解釈なんだけど(笑)

外の干渉を受け取りすぎるとバランスがくずれて、自分の言葉で話していることなのか、自分の耳が聞き取っているものなのか、自分自身が体感していることなのかがわからなくなる。
それって、優しいと表現出来たり、お人よしと表現出来たり、自分じゃなく“ぶってる”何かなんじゃないかって思えてくる。まるで《干渉に憑依》されているような…
あらゆる感情は、誰かや何かが鍵になって、これまでの負と感じて、受け取って、自分のコアに落とし込んだ経験がうずくことで生まれるんじゃないかって思う。

あらゆる外部のせいにすれば楽ちん。
自分以外の何かを決めつけてしまった方が、自分が守られているという感覚を体で感じることが出来るから。
でも、もっとよく自分を見つめたとき、自分を一番苦しめるのは自分という《個》が何を選んで、何をするかでしかない気がする。だから、いくらでも変われると思う。自分の世界の色を一色から二色にしようとしたら、一色の自分を溺愛するしかないと思う。

人に言われる私のイメージカラー
青・緑・白・オレンジ・カシスピンク

今の私の色は5色。
私の好きな色は、赤。
これで6色。

何色になりたくて、何色が欲しくて、何色でありたいか。
選ぶのは自分だし、誰かが選ぶ色をわざわざ選んでみるのもいいかもしれない。
誰かが選んだ色が自分の好みじゃなかったとしても、選んでみたら、その色を自分の色に意識を変えられるかもしれない。
変えられないと恐れを感じることも、いちいち大丈夫と受け取りなおすことで、少しずつ恐れが曖昧になっていくと思う。
認めないこと、認めすぎること、攻撃的な自分、平気なフリが変化のスピードを鈍足にしてしまう気がする。

自分の役も決めなくて大丈夫。
○○の私じゃなくても大丈夫。
○○になろうとしなくて大丈夫。
自分を溺愛して自分を赦して、もっと自分をゆるめて楽しませてあげられたら大丈夫。
誰のためでもなく、自分のためだけに、やりたいことをやった結果が誰かのためになれば大丈夫。
最初から誰かのために何かをしなくて大丈夫。

大丈夫を繰り返すために、必要なことだけを選んで来たら今の私に出会えてる(笑)
自分が無理をする癖を手放し始めたら、息子も無理して自分を削ることをやめた。
今はただそれだけでいい気がしてる。

ここ数日の自分をみて、ここ数年の事を思い返して、久し振りに気づきの境地と、また私のコアに落とし込む。
新しい私の微胎動をじんわり感じながら…
(そしていろいろを満月のせいにしてみるw)