少しから大きくへ

大きいか小さいかで言ったら、やることは大きいし、見てるさきも大きい。

でも、取っ掛かりとしては小さな規模から着実にって感じで始まる家族ごはん。

 

誰かの居場所になったらいいだけ

一人で食べるごはんがおいしくないならみんなで食べようってだけ

一人で調理するのがつまらないなら、誰かといっしょに作ったらいいじゃないってだけ

お喋りできる友達がほしいなら見つけにきたらいいだけ

 

いろんな《それだけのこと》をまとめて形にできる可能性がある家族ごはん。

 

本当は子ども食堂をしたかったけど、子ども食堂の定着したイメージがあまりにもひどすぎた。

 

・家庭に問題がある子供が行くところ

低所得者がいくところ

 

私は、みんなで一緒にご飯を食べる《場》を作りたいだけなのに、もともと含まれていた子供食堂の目的はそっちのけに、何かしら暗いイメージのものとして取り上げられる傾向から、誰でも行ける食卓という概念は無視されだしてるようだった。

ご飯って、そんなもんでいいの?

私の中の違和感が、訴えかけてくる。

 

確かに現実問題として、あることでだし。

イメージや世間一般的な意見を除けば、必要なものとしてあるべきだと思う。

ただ、フォーカスされてるところが、ちょっとずれてきてる気がするだけ。

 

なので、私はもっとシンプルにみんなでご飯を食べる場所。として、家族ごはんをスタートさせた。

大人も子供も、一緒にいただきますして、ごちそうさまをする。

作るのだって子供も手伝うし、大人もやりたい人がやる。

片づけも同じで、強制ではなくそこにいる誰かしらがそのつど参加する。

 

家で食べるごはんだったり、食卓風景をそのままやろうと思っただけの話なんだけど。

やり始めようとした当初は、やっぱりおしゃれじゃないと受け入れられない?ご飯を食べるだけなら、子供食堂って言っちゃえばいい?食材にはこだわる?

いろいろ考えたりもした。

でも、食べたいおかずのリクエストを聞いて、そのリクエストにこたえていると、だいたいみんなが揃って笑顔で、食卓を囲んでいる。

大人も子供からも「瞳ちゃんのごはん美味しい」「おいしいごはん作ってくれてありがとう」って言ってくれる。

わざわざ言いに来てくれる(笑)

 

どれを正解にするか?

なんて、そんなことを考えてるうちは、まだまだ未熟で美味しくないんだなって気づいた。正解は食べたい人の笑顔。

嬉しそうにしてくれてるのが作り手としては、満たされる。

 

だからこそ、低価格での提供は考えられなかった。

高いからいいものでもなく、低いからいいものでもない。

なんなら低くない方がよりよい。というだけ。

 

作り手のエネルギーとして受け取る。

 

儲けたいから。とか、そんなことじゃなく、儲けより次につなげるエネルギーとして支払われる参加費を受け取ると、参加者も作り手もどちらも満たされる。

 

いろいろ思いは巡らせた。

そもそも自分の居場所探しから行きついた家族ごはんだったから。

自分の居場所がほしい。

自分を認めてもらえるように振舞わないといけない。

窮屈。やっぱり自分でいる以外に生き方を知らない。

いろいろ巡らせた。

 

そうか。自分が自分の居場所になればいい。

ついでに、誰かが居場所と思ってくれればいい。

自分らしくいてもいい。自分の意思を外に出してもいいという安心のある場所。

そうか。私がそんな《場》づくりをすればいいのか。

 

それでいきついたのが家族ごはんなんだけど…

大々的に告知してチラシを出して、最初から大きくやろうなんて気はさらさらなく。

前からそうだったけど、必要としてる人に必要とされる場所であればいい。

無理に仲良く振舞う必要はなく、一緒にご飯を食べるということだけを見つめたとき、大きいことを少しから始めることが、一番の近道だと思った。

 

まずは呼ばれたところ。そして定期的な開催も展開していく。